愛こそが人生において一番大事なものであると思っているのに、その意味を見失った。
恋人に何を求めているのかがわからない。
愛か体か安心感か。たとえばこれらの内の中に答えがあるとするならば、付き合う理由としては正しいのだろうか。
何かを求めている前提なのがそもそもの間違いなのかもしれない。
付き合う時は二人で決めるのに対し、別れるときは片方の都合である。
好きが故に別れなければならない場面がある。
相手の幸せを考えて行動することが愛であると思う。
その時が来るのは遠くないのかもしれない。君はどう思っているのだろうか。
二人がそれぞれに思っている、絶対に譲れないものをお互いに守れるのだろうか。
愛は、そこにあるのだろうか。
今までにどれだけ感情に振り回されてきたことか
良いようにも悪いようにも、感情によって体の状態が左右されることがかなり多い。
やる気があろうが無かろうが、辛いことがあろうが無かろうが関係なく、常に同じ体の状態でパフォーマンスを落とさないようになりたい。
自分の内側で楽しさも悲しさも同居させながら生きられるような逞しさがほしい。
何事にも臨機応変に対応できる柔軟さと、これだけは守り抜くという芯の強さがあれば大きく人生を間違えることはないと思うのだ。
その為にも、心の状態が体に影響することがないようにしたい。
何も間違ったことはしていない。落ち込んだってまた立ち上がれる。
今の環境と周りの人たちに感謝しながら生きられればいい。
とにかく、幸せにしたい人がいるんだから、まずは自分から変わる。
悲しさ、辛さ、苦労、努力は見せられない。
そんな生き方は羨ましいし、それが正解だと思ってる。
自分の才能を一切疑うことなく努力が出来て、付き合いも広くて、色んなことに興味をもてて、そんな生き方は羨ましいとは思うし、楽しいだろうなとも思う。
でも私にはその生き方は出来ない。
したくないとは違う。性に合わない。
不器用ながらに摩擦に耐え、溺れながらも辛うじて助かっているというような生き方が私には合っていると思う。
努力はする。でも努力を見せびらかすようなことはしたくない。
不言実行という、中学生がよくするそれとはまた違う。
努力なんてものを見られたくない。
努力で評価されたくないからだ。
結果でしか正当な評価はできない。
結果で勝負したい。
今を逃すわけにはいかない
めんどくさいことが多い。
したくないと心から思っている証拠だ。
こんな風にとことん自分に甘いのは、自信がない表れであると思う。
でも、そんなことでは今まで助けてくれた人達に合わせる顔がない。
恥じないような生き方をしたい。
もっと自信がほしい。
自分も幸せになりたいし、周りの人達も幸せにしたい。
愛は行動でしか示せないのだから、嫌われてもいいという覚悟で接するということをしないといけない。
やらなければいけないことが多いのは、それだけ成功できるチャンスが多いということ。
華々しい成功よりも、今は前に進むことを考えて日々生きる。
「精神的に向上心のない者はばかだ」については私も同意見です。
大切な人になるかもしれない人ができた。
趣味の違いなんてものは気にはしてない。
ただ、悩ましいことは距離の取り方。
近すぎず遠すぎずが一番長く続ける方法であろう。
その為に自分を客観視できなければならない。
客観視、軌道修正、客観視、軌道修正の繰り返し。
自分も相手も傷付けたくないから。
もやもやを久々にTwitterで吐き出したらリセットできたように思う。
もやもやがリセットされた変わりに、忘れていた不平不満・別の怒りを思い出してステイトが上がっている。
向上心は、はっきり言って無いに等しい。
私自身の原動力になるのは怒りである。
それが精神的には健康であるとは言えないかも知れないが、私にとって前に進むための感情がたまたま不満と怒りであると思えばそんなに悪いものではないと思う。
やるだけやって、ダメならまた休んで考えればいい。
目の前のことに真摯に向き合う。
2015年を振り返る。
1月~6月。ケンカと仲直りを繰り返してた。大事な人を何回も傷つけて結局別れた。
7月8月。仕事で手いっぱいだった。
この頃から将来に対する不安が高まって、情緒的に不安定になってきた。
9月。誕生日に海遊館に行った。
フレデリックのぬいぐるみをもらった。
10月。今年はパレードには行けなかった。
11月。なんかあったっけ。忘れた。
12月。名古屋旅行。
今年の自分自身の漢字を